書籍編集者の裏ブログ -7ページ目

頭がいい人ほど、頭が悪い?



頭がいい人は、一次的な記憶がもの凄くいい人でもある。
混乱した議論の場で、個々の論点とそのよって立つ前提を瞬時に見極め、一次記憶し、交通整理してしまう。
講演会で、聴衆の質問を受け付ける。一度に複数の質問が飛び交っても、それらを全て記憶していて、ひとつひとつ応対する。
小難しい本を読んでいても、導入エピソード、抽象化の過程の論理も、反対意見の列挙も、それぞれの論拠の相違も、最終的な論駁も、それらから拾い上げられる結論も全て覚えていられる。

頭が悪い人の本の読み方は、「何を捨てるか」という読み方になる。
いちいち全部を覚えていられるほど、頭は良くない。したがって、「何がこの著者の言いたいことなのか」、「帰結なのか」、「本質なのか」と、そういう観点だけで、読む。細かな例示や、レトリックや、やがて否定されるであろう反対意見などもどんどん捨象して読む。400頁の本を読み終わって、結局「本居宣長は古事記そのもののむこうにある古言を読もうとした」というような帰結だけを記憶に定着させる。
こうした読み方の問題点は、ディテールを忘れてしまうことである。読んだ尻から、忘れている。ディテールそのものが大切であるというもの、歴史や法律や地理や文学や工学……については、空のフォルダを一つ作ったというにすぎない読み方になってしまう。

その点、頭がいい人の読み方は、ちゃんとディテールも覚えているので、細かな実例が、たっぷり入ったフォルダが読了と同時に出来上がっている。

で、その頭がいい人に、その本の要約をしてもらうとする。彼は、頭がいいので、その本と同様のレトリックを再現させ、細かな例示までもすらすらと語る。勿論、その本の帰結に当たる部分も語るのだが、それを聞いている頭の悪い人には、その一連の説明の中で、何が大事なのか、何を捨象すべきなのか、が分からないので、ちんぷんかんぷんである。一方、頭の悪い人に、その本の要約をしてもらう。彼は、頭が悪いので、細かな話は何も覚えていない。覚えているのは、その本の結論だけである。「この本は、ようするに『水道の水は飲むな』といっているのです」それを聞いた別の頭の悪い人は、「ああ、なるほど、300頁も使っていろいろ書いてあるが、結局はそういうことなのか」と得心する。

頭のいい人は、この大胆な捨象に我慢がならない。そんなことだけでよいのかと憤然とする。そもそもの現状認識とか、飲用水の歴史とか、水殺菌の薬の有害性とか、その病例とか、その治癒の困難さとか……そうした多くのことがこの本には書かれていたではないか、という訳である。この頭のいい人には、それらディテールに優先順位など付けられないのだ。せっかく覚えたことに無駄なことなどあってはならないのだ。結局、頭のいい人は、物事の本質を見失ってしまう。

頭の悪い人は、物事のその本質を見抜く資質に恵まれるのである。読書だけでなく、人に対しても、世間の流行というものに対しても、世の中の現象に対しても、会議の議論に対してもである。